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1994

1994/10/13(木)13:12 二人で初めての海外旅行は、成田発着、スキポール空港経由のウィーン(~ザルツブルク)でした。

​復路のスキポール空港でのタイマー撮影写真 : フィルムカメラで、プリント写真をスキャニング 42歳と44歳

1994/10 二人で初めての海外旅行が成立したのは、「お母さんも連れて行って!」の娘の発言でした。3人で両親が留守になる自宅を守る~家事の分担を決めて、約1か月前から実践練習!

この前段に、1990年10-11月に鳥取市勤労青年海外研修団に選ばれて、初めてのパスポート使用がロンドン3泊、デュッセルドルフ、アムステルダム各1泊、パリ3泊でした。大阪での前泊に出かける際は、家族4人が鳥取市庁舎(当時)に見送りに出かけてくれました。復路の機中泊を含め、計10泊11日の体験をした後、毎年のように「行きたい病!」・・・で、1994年には「行ってらっしゃい!」と(諦め的)許可を得たのです。この発端は、兼務で鳥取療育園長を担い始めた2年目・1994年8月28日()午前中に居間でワープロ“ミニ書院”に集中しているのを見て、「何しているの?」と。で、「福祉の動向・・・;西欧は・・・」と話したら、階段下の物入れを開けてゴソゴソ・・・で、「あった!」と。鳥取市報に、ふるさと創生基金(竹下 登 首相当時;全国の市町村に一律1億円を配布)を基にした第1回鳥取市勤労青年海外研修団の団員追加募集の記事でした。県教委など、公務が目白押しだった当時の小生、手帳を見るとドンピシャリ空白だったのです。応募資格は、2年以上鳥取市在住、4月1日現在39歳以下、所属長の推薦状、応募動機の作文、面接が列記されていました。「月曜日朝、県職員でもOKか否か、鳥取市担当に電話して確認し、OKなら病院に電話して!」と託し、幸いOKとの情報を得て、昼休み時間帯に院長室へ!事情を話すと、岩宮 緑 院長は「マ、ようやっとうけん行ってこいや!医者がいるのも良かろう」と話し、早速、推薦状を書いてくださいました。出発までに西欧の歴史・文化・産業等の事前研修も課せられていましたが、小生は日々の業務が多用であることから免除してもらえました。年齢的には、10/29の出発時は、既に40歳になっており、つまり、最年長であったことも免除要因になってことでしょう。ただし、言動は“一番若かった!”し、現地でも仲間が「大谷さんが寝ている所を見たことがない!」と。二人部屋の相棒(副団長)の支障にならないよう、就眠時刻になったら、かつ、早朝・夜明け前にもトイレに座して、アレコレ情報収集(と言ってもネットがあるわけではなく、本・パンフレット類)や、書き物をしていました。

​※ この当時(40歳)のエネルギーは、今なお低下しているとは思えません。代謝はむしろ亢進!

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2000

「キューケンホフ公園に行きたい!」と仰せになり、2000年5月、結婚25年記念年にベネルクス三国へ:最初がオランダ!

ブリュッセルで三連泊のトラピックス企画があり、2000年5月に実現 : ブリュッセルでの全日自由の際のお昼

当時、ベルギー・スペイン王室の400周年記念イベントが開催されており、ベルギー発のキリストの生涯を描いた一連のタペストリーが里帰りし、教会に掲げられ、拝観したことや、京都の時代祭のような年に1回のお祭り OMMEGANG (2020, 2021 は新コロ渦中で中止;2022の開催案内)が、スペイン王族を向かえ、グラン・プラスの南側半分を活かした空間、特設ステージで開催されたのです。全日自由の日に全く偶然に情報を知り、早目の夕食後にグランプラスの中央最前列(立ち見)席を確保し、堪能し得ました。

2003年10月、中病を辞して智頭に異動する前に、イタリアへ : 恵子は腰痛で浩之が参加(:トラピックス)

2005

結婚30年記念年 : 2005年5月 ドイツ~スイス​ 2泊後・30日(月)ミュンヘンのホーフブロイハウス Hofbräuhaus 

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2005年、初めて手にしたデジカメの画素数は 1280×960=1,228,800 で、100万画素を超えるのが話題!

​(わが家で最初にデジカメを購入したのは娘で画素数は、691,200(=960×720)だった?!価格は高かった!!

カメラの日付を、機内で現地に合わせたら、暦年が 2003年になっていたのに気づかなかった。2005年です!

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“新白鳥城” ノイシュヴァンシュタイン城 Schloss Neuschwanstein から徒歩で下る際の撮影

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この企画は、ホテル5泊だったが、最終日が夜の離陸で、実質7泊8日と変わらないと彼女が気づいたこと、かつ、インターラーケンでの連泊があり、全日自由の設定があったこと、さらに、最初は企画がなかった土曜日出発が増枠になったことで決定!

スイスに到着するまでに、小生の言動が添乗員に信頼され、ホテルインターラーケンの上階角部屋が提供されました。

全日自由の6月1日(水)は、最初にハーダークルムに急こう配のケーブルカーで上がり、ベルナーオーバーラント三山を眺めた後、降りて、電車で一駅移動し、シーニゲプラッテ鉄道で、シーニゲプラッテへ!

2005年の西欧は、例外的な好天が続き、出国前には天気の下り坂も懸念しましたが、幸い夏日(~真夏日)が持続し、気温が上がったことで、シーニゲプラッテ名物の高山植物園は開園前でしたが、高山植物が咲き誇っていました。結果的に、開園前の人気のない環境に恵まれたのです。

遠望、正面はユングフラウ 4158m、右下の三角形はシルバーホルン

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左手前の緩やかな峰はメンリッヘン山頂 その右向こうの峰はチュッゲン(と、今だから分かります。2021/6/23)

この際、トレイル横で眺め、魅せられ、撮り得た高山植物が最上・最良の写真です。

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その後、7月のスイス・ベルナーオーバーラント地方には、計4回、延べ24泊し、歩いていますが、この名を知らない高山植物には出会ったことがありません。

シーニゲプラッテから降りて、ホテルに帰った後、夕食へ!観光客が立ち寄らない、地元の人に人気のココ!

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チーズフォンジュは、今もなお、美味しさが蘇ります。山小屋風のホテルレストラン Hirschen !再訪を念願しています。

​今、調べたら、Hotel Interlaken から徒歩で、ヘーマッテ公園の中心部を南下すると丁度 1.0km!

最終日、2005年6月2日(木)最終日の朝も、澄んだ快晴で、ヘーマッテ公園からユングフラウ、シルバーホルンが見えました。

バスでラウターブルンネンへ。下車後、トイレへ。小生は添乗員に託されて、案内係!

三山が見える側の席を確保! 08:47

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08:57 ラウターブルンネンからヴェンゲンを通過し・・・

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09:47 クライネ・シャイデックでユングフラウ鉄道に乗換

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アイガーヴァンド、アイスメアからの景色に感動し、快晴のトップ・オブ・ヨーロッパを堪能し・・・

復路は、第二添乗員と化していた小生は、本業のお子さんの病気に係る相談も受けて・・・

2009-

この当時、「5年に1回」との方針が語られ、次は、小生の還暦記念年が始まる2009/9 ロンドンへ!

そして、単独行の2011/5 ロンドン、2012/5 ウィーン、2012/10 還暦記念での二人でのパリ、さらに2013/5 ウィーン、2013/10 「雑貨屋に行きそびれた」発言での二人での2年連続パリと続きます。

彼女は、西欧を計8回!(小生は・・・25回;スイス3回;小生6回

※ 1990; 1994; 1997; 2000; 2003; 2005; 2009; 2011; 2012/5, 2012/10; 2013/5, 2013/10; 2014/5,10; 2015/7, 2015/10; 2016/7, 2016/10; 2017/5, 2017/10, 2018/5, 2018/7; 2019/5, 2019/7, 2019/9; 2022/5, 2022/7 

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